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目次
1.不法行為に対する懲罰的損害賠償について(その1)
2.知財雑記12
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はじめに
日本における令和元年改正特許法は、損害賠償額の見直し、査証制度の創設、意匠法大改正などのいくつかの目玉となる改正事項を含む。損害賠償額の見直しに着目すると、改正の度に権利者保護が充実してきているものの、何か物足りなさを感じる。それは、改正の度に、懲罰的損害賠償制度の導入が議論されては消えるという繰り返しだからかもしれない。一方、外国に目を向けると、欧州諸国は別として、米国、カナダ、また中国、台湾、韓国などアジアの主な国・地域では、特許権又は商標権の侵害訴訟における懲罰的損害賠償が認められている。以下、懲罰的損害賠償の歴史について調べたところ、おもしろい情報(注1)を見つけたので、その一部を紹介したい。
(1)英国から始まった懲罰的損害賠償判決
懲罰的損害賠償の認容判決の起源は、コモン・ロー体系を採る英国にある。時代は、産業革命が起きた18世紀半ばである。懲罰的損害賠償を認めた最初の判決は、Huckle v. Money(1763年)である。Huckle v. Money事件では、役人が匿名の捜査令状により違法な捜索と押収、身体的強迫、不法監禁を行ったとして、原告に、実損:20ポンドに、制裁的賠償:300ポンドを追加して認める判決が下された。数年後、1769年のTullidge v. Wadeでは、ロンドン証券取引所という公共の場で殴られたことを理由とし、殴られた個人への懲罰的賠償が認められた。その後、懲罰的損害賠償の認容判決は、約200年続くことになる。
(2)懲罰的損害賠償への大きなブレーキ
しかし、1964年のRookes v. Barnardは、英国の懲罰的損害賠償の認容に大きなブレーキをかけた。この事件は、ある企業の労働組合の幹部との意見の対立から組合を脱会した従業員を、組合からの圧力に屈した会社が解雇したことから、従業員が組合の幹部を被告として、懲罰的賠償を求めて訴えた事件である。結局、上告審の貴族院は、懲罰的損害賠償を認めず、この訴えを棄却した。裁判官は、懲罰的損害賠償を認める類型を、以下の3つの類型に限定した。
I.公務員による抑圧的、恣意的又は違憲的行為であること。
II.被告が填補的損害賠償額を超えた利益を得ることを見込んで行った違法行為であること。
III.懲罰的損害賠償が制定法で定められている場合であること。
(3)懲罰的損害賠償へのさらなるブレーキ
その後、1993年には、控訴院でA.B. v. South West Water Services Ltd.の判決が出され、懲罰的損害賠償の認容範囲がさらに制限された。具体的には、懲罰的損害賠償は、先に述べた3つの類型のいずれかに該当することに加え、1964年のRookes v. Barnard判決以前に認められてきた請求の原因に限定されることになった。
(4)英国の懲罰的損害賠償の今
その後、2001年のKuddus v. Chief Constable of Leicestershire事件において、1964年のRookes v. Barnard判決以前に認められてきた請求の原因に限定する必要はないとの結論に達し、懲罰的損害賠償は、以前より認容されやすくなった。
当方の調べた範囲では、英国における特許権をはじめ知財関連の侵害訴訟では、懲罰的損害賠償を認容する判決は見当たらない。現在の英国では、権利者は、自己の損害、侵害者利益のいずれかの算定方法を選択でき、その算定方法による額を請求できる。なお、侵害者利益の算定に関しては、侵害者利益の調査が困難であるため、あまり使われていないようである(注2)。
英国から独立を果たした米国での懲罰的損害賠償は、英国とは比べものにならないほどに高額化し、現在に至っている。また、英連邦諸国(カナダ、オーストラリアおよびニュージーランド)は、米国ほどの多額の賠償額を認めてはいないものの、英国での1964年のRookes v. Barnardを踏襲することなく独自の途を歩むことになる。これについては次号で紹介したい。
注1: 楪 博行,「イングランドにおける懲罰的損害賠償の 成立背景と変遷」,白鷗法学 第21巻1号(通巻第43号),125-169(2014).
注2: https://www.jpo.go.jp/resources/shingikai/sangyo-kouzou/shousai/tokkyo_shoi/document/39-shiryou/03.pdf
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はじめに
長期間に渡った知財プロジェクトについて述べる。海外の開発拠点で誕生した発明の特許出願、権利化及びその活用であり、20年以上の年月を要した。専任ではなく、その間、他の仕事にも従事していた。
この知財プロジェクト全体を統括する本社の知財担当となった。海外拠点には当該国の海外弁護士が配置された。攻め、守り等の様々な仕事があったが、攻めに属する特許ポートフォリオ形成の仕事について、我が国に開発拠点がある場合と異なる点に触れながら述べる。
海外拠点
会社としては、開発拠点のある国の法規慣習の下、知財の仕事をおこなうことになる。その大きな違いが秘密特許制度(注1)である。我が国にはない制度であるため戸惑った。秘密特許制度があると、当該国に特許出願をしても、当局が国家の安全保障等に関係すると判断した場合にはその内容が非公開となり、審査が保留されたり特許対象外となったりする。また、当該国から他国への外国出願も制限される。開発対象の技術はミサイル等の軍事用技術ではなく民生用技術だったから問題ないと思ったが、近年では民生用技術であっても軍事用技術にも転用されることがある。そのような次第であるが、当局が「秘密特許に該当しない」としたときは、海外弁護士ともどもほっとした。
また、東芝機械ココム違反事件(注2)が頭をかすめた。万一、同様な問題が起きると、自分も含め、会社全体の問題となる。そこで、我が国で通常行っている知財活動が開発拠点国で問題にならないように注意した。海外拠点弁護士や外部弁護士のアドバイスをもらった。
そのようにして、一連の特許出願を終了させた。
特許出願・権利化
ようやく一連の特許出願を終え、権利化を進めることとなった。海外拠点弁護士の意向を尊重した。この知財プロジェクトは社内で注目されており、彼らのモチベーションは高く、自分達主導で進めたいとする意欲が強かったためだ。最終責任は本社が負うにしても、現場のモチベーション維持は大切だ。出願国、出願方法(国内出願するか、又は国際出願するか等)といった大枠については、海外拠点及び本社で打合せして決めたが、その他の点については海外拠点の意向を尊重した。
海外拠点弁護士は熱心に権利化を進めた。しかし、この知財プロジェクトを担当する海外弁護士は何故か次々と転職等していった。ストックオプション等、高給の誘い等があったようだ。また、権利化が進まなかったことも退職理由だったのかもしれない。
特許ポートフォリオ形成(注3)
遂に、海外拠点から、「海外拠点にいる弁護士の中で、海外プロジェクト担当を引き継ぐ者がいなくなったので、本社で引き継いで欲しい」との要請があり、自分が全件一括して引き継いだ。
主体的に権利化を進められるようになったが、全出願について権利化の責任を負うこととなり、プレッシャーで押しつぶされそうになった。仕事を引き継いで、各出願について重要性の再評価をした。そして、重要と評価した出願を中心に、権利化の方向性を決めて権利化を進めた。
すると、重要と評価した出願を中心に、意図した方向で権利化が進み、強い特許ポートフォリオが形成されていった。
第三者の評価
ある日、海外代理人から、「第三者から、特許ポートフォリオを売却して欲しい、と打診された。」との知らせが入った。早速、知財関係者に伝えた。
苦労して構築した特許ポートフォリオであったが、思いがけない第三者から高く評価された。
第三者から評価された時期は、特許出願から10年経っていた。
これを境に、この仕事に対する周囲の理解が進んだように感じた。
その後も、特許ポートフォリオの更なる強化、及びその活用で、この知財プロジェクトに関する仕事には20年以上の年月を要した。
終わりに
以上、12回にわたる知財雑記を終了する。知財雑記が皆様にとって何等かの参考になることを期待する。
(注1)「秘密特許制度」とは、国家の安全性及び優位性を含む重要な技術開発に関する特許出願の内容を秘密にする制度。我が国を除く先進国の殆どが導入している。外国出願についても当局の許可が必要な場合がある。
(注2)東芝機械ココム違反事件とは、東芝機械(当時の東芝子会社)等が、ココム(COCOM・共産圏輸出統制委員会)違反と知りながら、工作機械をソビエトに輸出した事件であり、国際的な大きな政治問題に発展した。
(注3)特許ポートフォリオ(Patent Portfolio)とは、所定の開発、技術等に関する特許群のこと。
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